鎖国と大和川の付替でも消滅しなかった町−堺
2007/12/06(木)
2007/11/26 第2260例会 本日の例会での卓話は下記のタイトルにて山口恵子会員のご紹介に依ります日本ペンクラブ会員、ナヤ・ミュ−ジアムの会 代表の 中井 正弘 様の講演が御座いました。 鎖国と大和川の付替でも消滅しなかった町−堺 日本ペンクラブ会員 中井正弘氏
中世から近世初頭にかけて海外交易で大繁栄をし、「黄金の日々」を謳歌したといわれた堺が、江戸時代初期の鎖国(1639年)と、さらに大和川の付け替え(1704年)によって港付近に流入する大量の土砂のため、大型船が入港できず斜陽を迎えた。かわって大坂が「天下の台所」として大きく繁栄したことは、よく知られている。
しかし、歴史のターニングポイントは、すでに豊臣秀吉の大坂城築城により、堺商人が城下に集められたときに始まったといってよい。決定的なことは、大坂夏の陣(1615年)で堺の町が全焼、徳川幕府が新しい近世の商工都市として復活をはかり、二代将軍・秀忠、続いて三代将軍・家光が直接堺へやって来て、その復興ぶりを視察したほどであるが、いかんせん、昔日に及ぶことはなかった。だが、その後、まったく堺が衰退したわけでない。江戸時代二百数十年間ひたすら衰退し続けていたのであれば、幕末に至る鎖国から229年間、少なくとも大和川付け替えから164年間も経てば、町は消滅するほどになっていたはず。
ところが明治初期のわずか14年間だったが、和泉・河内さらに大和を管轄する堺県の県庁所在地になったことをみれば、大樹の下に下草は生えないといわれるが、江戸時代通じて、町を衰退から免れるべき活動がつづけられていたことに留意してみることも大切ではないだろうか。
江戸時代を通じて残された堺の絵図から、たびたびの港の修築・移動と新地・新田開発を堺の商人たち、時には外来の商人や奉行所の支援のもと、町をあげての街づくりに取り組み、近代都市への足がかりを築いた跡をたどってみたい。
1、谷善右衛門の享保期の港づくり
2、吉川俵右衛門らの寛政期の港づくり(鳴り物入りの砂持興業)
3、大飢饉と天保期の港・新地づくり(堺のウォーターフロント開発の先駆け)
「新地繁栄之図」にみる港周辺の賑わい
4、現・旧堺港の南湾戸・北湾戸の閉削(安政一幕末期の港づくり)
5、豪商たちによる大和川河口の新田開発と内陸部の新田開発
6、堺県の設置と近代産業、大浜・浜寺の海浜リゾートの発展
このように、江戸時代の堺の港は宝永元年(1704)以来、幕末(1868)まで実に164年間、大和川の絶えず流出してくる土砂により、港が埋没する危機に幾度も苦しめられながら、浜方の商人だけでなく、堺の南北両郷の町の総力を幾度も挙げ、時には吉川俵右衛門のような他郷の商人の力も得て、さらに奉行所側の積極的な対応ですなわち官民一体となった事業を次々と実施して港と町の発展をはかってきたことである。しかし、土砂の堆積と港の水深が浅くなっていくのはその後も続いた。そして時として、大飢饉の不況を乗り切る社会事業としても興業され、町人の生活の安定をはかってきたといえる。
それは単に商業港としての機能だけでなく、「新地」の開発すなわち新しい市街地の形成は町屋群だけでなく、寺院の建立、鎮守社の鎮座、茶屋の営業、芝居の開設、遊廓の許可など、当時の町びとの信仰と娯楽レクリエーションのリゾート地として発展させていたことである。また周辺地域、特に古川以北の大和川河口付近の新田開発も、商人たちの有力な投資先として積極的に行われた。周辺農村の小作農民にとっても有利な条件の耕作地として移り住み、開墾に精を出し、現・三宝地区一帯の発展がはかられたことはいうまでもない。










